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RITSUMEIKAN UNIVERSITY RUGBY FOOTBALL CLUB

立命館大学
体育会ラグビー部

ラストイヤーにかける想い-岩﨑達也-

2026/08/26

年を重ねようとも、いくら身体が大きくなろうとも、たっちゃんと呼ばれる僕も前例に沿って、ラグビーを始めたところから書き始めたいと思います。

ラグビーは当時の中学校の監督に誘われ始めました。元々小学生で陸上、テニス、水泳をしており、テニス部があれば入ろうと思っていましたが、テニス部はなく、なぜかラグビー部はありました。入学して間もなく監督に「身体大きいなラグビーやったほうがいいわ、勉強嫌いやろ?ラグビーしてたら高校行けるで」と毎朝話しかけられたことで、まんまとその気になり、始めました。
始めてから3ヶ月、ハイタックルを受けて鎖骨を骨折し、やばいスポーツに手を出したなあと後悔しながらも、3年生ではキャプテンが久野くん、副キャプテンが2人いる中の1人が僕で、西村くんのラストイヤーにもあるとおり、ゴリゴリのフィジカル軍団でした。それを象徴するのが「自陣からピック&ゴーしてトライまで行く、久野が真っ直ぐ走ってくる」という、今考えると終わってる戦術で京都で3位までいくことができました。

しかし、3位ではなくどうしても京都で1位の景色が見てみたいという想いから、実現できそうな京都成章高校に進学しました。毎週土日になれば御所に試合しに行くスケジュールをこなしていましたが、2年生の春に前十字靱帯を損傷してしまいました。一時期は色々考えては落ち込んでを繰り返していましたが、結局強なって帰ってきたらええだけか、というシンプルな考えにまとまり、トレーニングに没頭しました。同時にここで首が短くなりました。フロントローだけ首のトレーニングがあり、首のトレーニングだけで短くて40分、長くて1時間弱ぐらいしてました。同期で首トレをしていたら力みすぎて鼻血を出したやつもいました。
「首やってたら鼻血でてきました。。」
ラグビーを長年している人でも出会えるかどうか怪しい言葉に当時は引いていましたが、今後の人生においてこんな報告も聞くことのないと思うと感慨深いです。今後首トレしてて鼻血でた人がいれば教えてください、才能あります。そんな愉快な仲間とジャージを着て、結果的に京都で1位になることができ、全国ベスト4という結果を残せたのは最高の思い出です。

ここから大学での話になります。
当時、高校3年生の僕はハードな練習になんとか喰らいつくものの、前十字の怪我の影響で朝起きてまず歩くことができるかどうか、膝が真っ直ぐ伸びるかを気にしていました。膝が伸びない、歩くことができない日は時間を作ってはストレッチを行いオフのほぼない日常をなんとか誤魔化していました。
だからこそ大学では週2オフがあるという響きが気持ち良かったです。「週2オフ‥」とぼそっと口に出すだけで脳からなにかしらの物質が分泌されるのを感じ、口角を上げていました。1回生の頃は膝の怪我人でスタートしていましたが、秋のシーズンでは同じポジションの先輩の怪我などが重なり、橋本くんが1番、僕が17番を背負う時も何度かありました。監督はさぞ心配だったと思います。2回生の春、亀岡ラグビー祭で初めてスタメンで試合に出られました。大学ラグビーは楽しいなあと思ってた矢先、

次の大阪体育大学戦でイエローカードをもらい、グレかけました。

(4回生・岩﨑達也、大本峻士)

 

そこからはひどいものでした。2回生の秋はだいたい下のチーム。3回生の春もたまにAで出ていましたが秋になると下のチーム。ましてや下のチームの試合にも出れない時期もありました。どうしても秋の大事なシーズンに結果を残せない。悩みながらも迎えた4回生で1番から3番に挑戦することにしました。立命館あるあるで、1番か3番の一人が怪我等で抜けると続けて二人、三人と抜けていきます。1番はいっぱいいるのに3番は全然おらへん。逆も然り。こんなことが結構起きるので両方できたら選手として使いやすいやろうし、試合に出られる選択肢を増やせると考えました。知ってる方もいると思いますが、僕は成章出身の割には考え悩み迷うことが多々あります。考えすぎてバッドに入ることもあるのですが、その分一度自分で決めたことには全く迷いがないです。試合に出るための選択肢を増やすために、3番にポジションを一度変え、上手く行かなくても最後までやりきろうと決めました。今だから言うと鍋島くんも結構マジで1回は抜かしたろうとか思ってました。

最初は当たり前ですが上手くいきませんでした。同じことを何度も注意され、頭で考えたこと、理解したことを身体とすり合わす、再現する大変さに苦しみました。練習前に必ずフォーカスポイントを決め、スクラムを組んでは、あれができたこれができないと感じたことをノートに殴り書きしてレビューを出し、自主練でも何度も後輩、同期を引き止めました。付き合ってくれた人、教えてくれた人、感謝しています。練習を重ねるたびに意識していることが無意識にできるようになり、少しずつ成長を感じました。天理Jr.、亀岡ラグビー祭、東京遠征とメンバーに入れてこっからもっとギアを上げていこうとしている矢先に、左目が見えにくくなりました。

視界の上の方がなくなり、網膜剥離と診断され手術するころには視界の半分くらい見えませんでした。お医者さんに重症中の重症と言われ、ラグビーを辞めました。大学病院のベットの空きがなかった為、病院内の小児科に入院し、なんやこの人生は?なんの為にこんなしんどいことしてきたんや?と寝たきりの入院中繰り返し考えていました。

ぐるぐる考え悩んでいましたが、小児科に入院して、有り難いことに考え方が変わりました。小児科にいる子達は手術を受ける子ばかりなので、当たり前ですが泣き声が病院内に響いていました。お母さんが書類書くために離れたら「お母さんどこ~うあぁ」と絶望し泣いてしまう。夜になれば「家に帰りたいよ~」。自分があの年代で手術するとなったらきついし、同じく泣いているだろうと思ってたので、診察の際に話してみると、
「そうやな、今は大変やろうけど手術で治る子達は大丈夫。助けられるし、生きているから。救えない子もいる。」と普段にこやかな先生は少し悲しそうな顔で遠く先を見つめていました。その一言で五体満足で生きていることは当たり前のことではないと改めて気付くには十分でした。
退院するころには失った筋力の代わりに、まあ生きてそれなりに笑えてればいいかという考え方を得て、ぼちぼち生きています。ざっとこんな感じでラグビー人生を振り返っていきました。

残されたこの時間は学生コーチで頑張ります。僕ができること、与えられるプラスの影響はとてもちっぽけなものだと思います。最近は気が抜けているのかぼーっとすることが多くなっているので迷惑をかけることが多くなってるかもしれませんが、立命が関西のダークホースになれるように貢献していきます。
あと、同期のみなさん尊敬してるよー。僕とは異なる様々な種類の才能が集まっていることで暇せずに過ごせてます。くれぐれも引退まで怪我のないように。願ってます。
長い文章にお付き合い頂きありがとうございました。続きは両親だけ読んでください。

10年続けたラグビー部という名のチーム活動ももうすぐ終わりに近づいています。シーズンが始まればすぐ終わることも知っています。選手を辞めながらもチーム活動に参加させてもらっていること、育ててもらったこと、10年で5回手術しその度に支えてもらい勇気をもらったこと、しっかり覚えています。感謝しています。
それと同時に申し訳なさも感じています。中学校から試合を楽しみに見に来てくれることを知っています。最後の年になり何度も試合に出ている姿を見せたかったのですが、今後僕がジャージを着てプレーする姿が目に映ることはありません。ここまでやってきたのですが春の亀岡で最後です。これまで多くの食費や時間をかけてくれていたのにごめんなさい。試合を見に来てくれる、玄関で一言かけてくれるだけで僕のモチベーションは上がっていきました。見せるなら怪我が多いラグビーじゃなくても良かったんですがそれでもラグビーを選びました、後悔はないです。
社会人になっても悩むことは多々あると思いますが、その度に自分で考え、色々な人と出会い物事の捉え方、考え方を変え強くなっていくと思っています。心配はかけるかもしれませんが、これからもよろしくお願いします。

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