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RITSUMEIKAN UNIVERSITY RUGBY FOOTBALL CLUB

立命館大学
体育会ラグビー部

ラストイヤーにかける想い-鍋島孝碩-

2026/08/11

人より少し人情深いので、書きたい人や思い出が多すぎました。
お時間のある時に、最後まで読んでいただけたら嬉しいです。

 

僕は小さい時から兄が好きで、何をするにも全部真似をする、かわいい兄っ子でした。

 

小学生の頃の習い事は習字、テコンドー。ハマっていたアニメは『メジャー』『こち亀』。ゲームはデュエマ、イナズマイレブン、PSPのダンボール戦機、ベイブレードなど。全部兄の影響です。

同世代の子とは少しズレており、周りと違うことをして目立とうとする、当時から逆張りの片鱗を見せていた少しマセた子供時代でした。

 

そんな僕は、もちろん兄と同じ中学に入り、そこで初めてラグビーと出会いました。

そこの中学では部員がとても少なく、まず仲間集めから始めないといけない環境でした。しかし、その環境こそが、ずぶずぶとラグビーにハマっていくきっかけでした。

それと同時に、ラグビーは兄貴きっかけではなく、自分から好きになれた初めてのモノでした。

そんな僕が経験した10年間のラグビー人生を振り返って、ラストイヤーにかける思いを書きたいと思います。

 

ラグビーを始めた中1の頃は55kgしかなく、センターをやっていました。中2の冬、1個上の代が抜けるタイミングでプロップに転向することになり、増量のため、昼食の牛乳を乞食して毎日4本以上飲んでいました。すると気づけば中3の夏頃には、身長が伸びたのもありますが、体重が30kg増えて85kgになっていました。これが、ハマったら抜け出せないデブ人生の第一歩となりました。

その後、たまたまU-15福岡選抜のセレクションに呼ばれ、周りは有名クラブ(かしいや草ヶ江、岡本要する春日)の選手ばかりで、もちろん誰も僕のことを知りません。

しかし逆張りの鍋島は、「逆に、無名の俺が相手を弾いて、暴れたら目立つよな」と思い、とにかく全力でアピールしました。

そのかいあってU-15福岡選抜に選ばれ、その後7年をともにする生島さんと出会いました。

生島さんはすごく面白い子です。特に「あ、蝶々が飛んでる事件」。あれはたまりませんでした。
無名だった僕が、中学から大学までどれだけ悩んでいたか、無理していたか、頑張っていたかを知っているのは、生島さんしかいません。

ちなみに京都中学校選抜vs福岡選抜での西村君とのブレイクダウン対決はしびれました。

 

高校は東福岡高校に入りました。

決して順風満帆な3年間ではありませんでした。生島さんは覚えていると思いますが、この頃から怪我が多く、高2の頃にはコーチから「こいつにボールを持たすな」とまで言われ、あの頃はどん底のラグビー人生でした。

それでも頑張れたのは、母のおかげでした。

父は単身赴任で、兄、姉たちは大学に出ており、母と二人暮らしでした。毎朝早く起きて弁当を作ってくれて、毎日仕事に行って頑張って、帰ってきたら夜ご飯を作って、そして毎日笑顔で接してくれる。

そんな母の姿を見て、「いつか母を喜ばせたい」その思いで、必死に喰らいつき、最後までもがき続けました。
そして3年生になり、なんとかスタメンの座を勝ち取り、最後は花園で優勝することができました。

 

優勝した瞬間、一番に浮かんだのは、ずっと支えてくれた母のことでした。

花園優勝を経験し、その後、立命館大学に進学しました。

1回生の頃からメンバーに絡むことができ、大学でも順調にラグビー人生を歩んでいける。そんなふうに思っていました。

 

しかし、大学生活もそんなに甘くありませんでした。

怪我に悩まされ、2回も手術をしてラグビーができない時期が多くありました。それでも復帰して、2回生、3回生では甲斐さんと3番の座を争いながら、なんとかここまでラグビーを続けてきました。

そんな立命館では、大本峻士さんに出会うことができました。

(2026年卒・大本峻士、4回生・鍋島孝碩)

 

1番尊敬する先輩であり、1番好きな先輩でした。

「どんな時でも気を遣える人間になれ」

僕が大本さんに教わった中で、1番心に残っている言葉です。
ラグビーにおいても、人間関係においても、何に対しても、この言葉は共通して言えると思います。
疲れて余裕がなくなった時、苦しくて自分のことで精一杯になった時。それでも周りを見ることができるか。
僕は、そういう時にこそ人間性が出るのだと思っています。
どんな状況、どんな環境だとしても、周りに気を遣える人間でありたい。

僕は大本さんの言葉をそう自分なりに解釈し、今にも活かしています。

大本さんとは楽しかった思い出しかありません。

「あー。しらきのモノマネ」「エポックのマシュマロ」「ダーツ後のゲロ」「ウエイトペア」「エポックでのito」

思い出そうとすれば、いくらでも出てきます。
本当に感謝しかありません。

 

また立命館では、僕にとって最高な仲間にも出会うことができました。

この5人です。

(4回生・光野凉有、東修吾、鍋島孝碩、橋本凌、仲山慧一)

スノボに行ったり、沖縄に行ったり、ご飯を食べたり、ゲームをしたり、くだらないことで笑ったり。そんな何気ない時間が、僕にとっては心の支えになっていました。
ラグビーが上手くいかない時も、怪我をして苦しい時も、このメンバーといる時は自然と笑っていました。

 

そんな大切な仲間たちと過ごしてきた立命館で、僕が泣いてしまった出来事が2回あります。

それは、僕の大好きな橋本くんと岩﨑くんが、怪我によってラグビーを引退してしまったことです。

(4回生・橋本凌、鍋島孝碩)

 

まずは橋本くん。

橋本くんとは1回生の頃から仲が良く、花園決勝でも戦った、戦友でもありマブでもあります。
1回生の春からともにJr.で、練習や試合は常に一緒に出て、お互いに成長してきました。
橋本くんとの思い出の一戦は、1回生のころ菅平最終日の法政大A戦です。スクラムもめちゃくちゃ勝って、タックルもいって、僕のラグビー人生の中でもベストマッチに入るくらい楽しくて、2人でカマした試合でした。
その後、僕は肩の手術をしてリタイアしましたが、橋本くんは秋もAチームに残り続け、試合に出て活躍していました。
正直、嫉妬していました。
その後、橋本くんも怪我に悩まされ、2回生、3回生では復帰してはまた怪我をする。その繰り返しでした。
そして3回生の秋、ようやく復帰し、「将来もラグビーを続けたい」と話していた矢先、いつも通りのスクラム練習で首を痛めました。

「次痛めたら障がいが残る」

医者からそう言われ、橋本くんはラグビーを引退しました。
その話を聞いた時、本人の前では泣きませんでした。
でも、家に帰ってお風呂に浸かりながら橋本くんの立場になって考えていると、いつの間にか涙が出ていました。
僕自身も怪我が多く、何度も心が挫けそうになりました。それでも僕の怪我は、時間をかければもう一度ラグビーに戻ることができる怪我でした。

でも、橋本くんには「引退する」という選択肢しかなかった。
「もし自分が、もうラグビーができないと言われたら」
そう考えると、涙が止まりませんでした。

 

(4回生・鍋島孝碩、岩﨑達也)

次に、岩﨑くんです。

僕のことを「たか」と呼んでくれる、マブい友達です。2人で古着屋に行って、カフェで熱いラグビーの話をして、よく本音で語り合うような関係です。

1番印象に残っているのは、3回生の菅平で、
「4回生では3番にコンバートしたい」
と相談されたことです。

正直、今から3番に挑戦しても、中途半端になるだけなんじゃないかと思いました。

しかし岩﨑くんは、「試合に出られる選択肢を増やしたい」という強い意志があり、「上手くいかなくても最後までやり続ける」と言いました。

そして言葉通り、4回生になって3番に転向しました。当然、最初は上手くいかず、すごく悩んでいました。それでも毎回スクラム練習が終わると、僕や達也さん(スクラムコーチ)、他の3番にアドバイスを求め、自主練も欠かさず、毎回BANDを使ってレビューをしていました。
最初は上手く組めなかったスクラムも、努力を重ねるたびにどんどん良くなっていきました。
そして関東遠征のメンバーにも入り、これからもっと成長していく。そんなふうに思っていました。

しかし、その後の目の怪我によって、「これ以上ラグビーはできない」と医者に言われ、引退せざるを得なくなりました。
3番に挑戦すると決めてから、あれだけ努力して、ようやくその努力が形になり始めた時でした。
橋本くんの時と同じで、
「もし自分だったら」
そう考えていたら、いつの間にか涙が出ていました。

 

2人の引退を通して、僕は改めて考えさせられました。
今、僕たちがラグビーをできていることが、どれだけ貴重で、どれだけ幸せなことなのか。
そして、どれだけ多くの人に支えられて、ここまでラグビーを続けてこられたのか。改めて痛感しました。
橋本くんや岩﨑くんのように、ラグビーをしたくても、できなくなった仲間もいます。
だからこそ、最後の秋は、自分のためだけにラグビーをするつもりはもちろんありません。

 

橋本くん、岩﨑くん。他にも、大宮くん、仲山くん、石岡くん、中村くんなど、怪我やさまざまな事情で引退した同期。
ここまでずっと支えてくれた家族。
ともに戦ってきた同期、先輩、後輩、スタッフ。
そして、いつも支援してくださっているOB、保護者、立命館ラグビーを応援してくださるすべての方々。
その人たち一人ひとりの想いを背負って、この秋シーズンを闘います。
どれだけ辛くても、どれだけきつくても、試合終盤で身体が動かなくても、みんなの想いを思い出して、
みんなのために走る。
みんなのために身体を張る。
みんなのためにスクラムを押す。
そして、立命でラグビーができる最後の瞬間まで、僕らしく全力で闘い続けます。
兄の背中を追いかけるところから始まった10年間。気づけば、ラグビーは兄の真似ではなく、僕自身の人生に欠かせないものになっていました。
大好きな同期、仲間たちと最高の形で終わりたい。

それが、僕のラストイヤーにかける思いです。

本当はもっと書きたかったですが、さすがに長すぎるのでこれくらいにします。
長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。

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