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RITSUMEIKAN UNIVERSITY RUGBY FOOTBALL CLUB

立命館大学
体育会ラグビー部

ラストイヤーにかける想い-大宮泰輝-

2026/08/28

「部活を辞めたい」
何人かの同期がこの企画の中でそう綴っていますが、その中でも僕が一番そう思っていた自信がありますし、実際一度辞めようとしました。
学生S&Cの岩田さん(2023年度卒)にお願いして、マンツーマンのスピードトレーニングをしていた1回生のあの頃の自分から、回生があがるごとに少しずつラグビーに対する情熱は薄れていきました。

 

私はあまり自分のことを色々話すタイプではないですし、みんなも知らないと思います。ましてや自分がちゃんとラグビーをしているのを知っているのは一個下の3回生までです。なのでこれを機に私のラグビー人生を振り返りつつ、後輩へ伝えたいこと、ラストイヤーにかける思いを綴りたいと思います。

多少波瀾万丈だと思うので、少し長くなります。

 

私はラグビー1家の長男として生まれました。父は私にラグビーをやらせたかったらしく、弟がラグビーに対して乗り気だったこともあり、幼い私をよく練習場に連れて行こうとしました。しかし、当時私はテニスがやりたかったので都度断っていました。

ですが、6歳のある日「出かけるよー」と言われて車で連れられ、着いた先はグラウンドでした。その時に初めてラグビーをしましたが、これが案外楽しく、気が付くと地元のラグビースクールに兄弟揃って入会していました。決して強豪チームではなく、試合人数が揃うか揃わないかくらいのチームでしたが、仲間とラグビーをする楽しさにどんどんのめり込んでいきました。

地元の公立中学校に進学するのと同時に、ラグビースクール内でも中学生の部に繰り上がりました。中学2年生からU15の長野県スクール選抜として様々な舞台を経験させてもらい、3年次にはスクールの部決勝で群馬県代表を破り、東日本優勝・全国Jr出場という良い景色を見させてもらいました。たぶんこの時の開会式で同期の何人かと会ってます。

大会初戦の前日に、同じ代表に選ばれた地元チームの同期と夜の隅田川のほとりで、
「地元じゃ12人集まるか集まらないかぐらいの弱小チームなのに、随分と遠いところまで来たなぁ」
と2人で話したのをよく覚えています。あの時の夜景は今でも忘れられません。
この頃から「もっと上の舞台でプレーがしたい!」という思うようになり、長野県内の高校から声はかかっていましたが愛知県の中部大学春日丘高校へ進学しました。

高校日本代表になるという夢を追いかけ入学した私は、練習が終わった後もほぼ毎日のように暗くなった公園に行き、ランニング、坂ダッシュ、アジリティトレーニング、寮のベランダで筋トレなどやれることは全てやっていました。あの頃は本気でラグビー選手を目指していましたし、1番ラグビーに対する情熱がありました。なので自分がたまにちょっとだけ良いステップを踏むのはこの時のおかげです。

順調かに思えたラグビーキャリアに影が差してきたのは高校2年生のころでした。全国選抜大会初戦にて、12番スタメンで出場しトライも決めていたはずでしたが、突然トレーナーに声をかけられて気が付きました。移動着に着替えてバスに乗り込む選手をよそに、試合ジャージ姿でヘッドキャップを左手に握りしめ、グラウンドの隅で体育座りをしている自分がいました。
脳震盪でした。
試合の記憶が全く無く、試合動画を見返してみるとオフロードパスを放った瞬間、まるでボールのように自分の頭がグラウンドから跳ねていました。

気が付いた時のことは今でもよく覚えています。自分の中では試合に出ているつもりなので、「あれ、なんで違うチームが試合してるんだ?」「俺、今何してるんだろ」「どうやってここまで来たんだ?試合終わって挨拶はしたのか?」などすごく混乱しました。

その後も何度も脳震盪を繰り返しました。高校3年春(御所フェス)では脳震盪になって記憶を無くした挙句、宿泊するホテル内を彷徨うという粗相をし、その結果試合に出させてもらえず高校ラストイヤーを棒に振りました。

 

最後まで満足してプレーできなかった悔しさを取り戻すべく、大学進学後は偉大なる13番の先輩達の背中を追いかけて一層練習に励みました。

そんな自分の夢に重くのしかかってきたのは毎日の生活でした。夜遅くまで続く練習、終わらないレポートとテストの量、それでいて一般生徒と変わらない授業の評価、アルバイトの両立に疲れ、少しずつ心が黒く染まっていきました。

 

大学2回生になる頃には半ば鬱のようになりながら部活に行っていて、毎日退勤している社会人を見て「いいなぁもう家に帰れるのかぁ」とか思ってました。
本当の本当に部活に行きたくなくて、何度も部活を辞めようと思い、安川さんに「スポーツ推薦でも部活って辞めれますか?」とLINEし、後日スポーツ強化オフィスで安川さんと面談をしました。結果辞めるのを踏みとどまりましたが、今ではそれでよかったと思っています。
安川さん、ありがとうございました。

2回生の後期になると、通学の電車の中で細かい課題を提出したり、空きコマに図書館に籠ってレポートやテスト勉強をするなど自分の中で工夫してなんとかギリギリのラインで両立していくことができていました。この頃はJrのスタートでプレーすることができ、少しだけラグビーが楽しかったのを覚えています。

大学3年の春に両足首の靱帯再建手術後のリハビリを経て、いよいよこれから復帰という時にまたもや脳震盪になってしまいました。その頃にはその日1日の記憶がほとんど無くなるくらいにまでなっていました。この時に初めて東京の大きい病院で精密検査をしました。
通常の脳震盪の療養期間は2〜3週間程度ですが、その時診断された療養期間は1年でした。
1年間休んで脳の血流が回復するのを待ち、選手を続ける選択肢もありましたが、この頃には綺麗にタックルしても脳震盪になるくらい癖になっていて、復帰しても確実にまた脳震盪になります。その時はどんな症状や後遺症が自分を待っているか分かりません。
この先の長い人生と残りの1年にも満たないラグビーキャリアを天秤にかけた時、私はラグビーを選ぶ勇気がありませんでした。ですが約4年間脳震盪をしながらプレーしてきたので、「いつか必ずこの時は来る」と心のどこかで思っていました。なので不思議と受け入れるのに時間はかかりませんでしたし、幸い後遺症も無かったので体重は激減しましたがスムーズに日常生活に戻ることができました。

 

引退後は松本さんの計らいで学生トレーナーに入れてもらいました。
私は未熟者で、やりたくない、というのがすぐ顔に出るタイプです。実際いつも「やりたくないなぁ」という雰囲気が出ていたと思います。
学生トレーナーのみんなごめんなさい。

ですが正直、何不自由なくラグビーをしているみんなが羨ましかったですし、2年しか大学ラグビーでプレーできなかったので3、4回生とちゃんとプレーしていたらもっと試合に出て活躍できたかなとか考えていました。ですがそんなことを考えても目の前にあるのは先の見えない、毎日同じ雑用で嫌気が刺していました。なので、盗んだバイクではないですが、自分の原付で深夜の信楽あたりの山道を爆速することでストレス発散をしていました。誰もいない夜の山道を走ると、見たくない今の現実を置いてこれるというか、なんとなく抜け出せる気がしていたからです。そんな21の夜をしょっちゅう過ごしていました。

後輩の中にも僕と同じように、怪我などで選手を引退する人が出てくると思います。そんな後輩達に向けて、脳震盪で引退した自分だからこそ伝えたいことをここに残しておこうと思います。

「まずはよくここまでラグビーを続けてきましたね。お疲れ様でした。
長い間生活の中心だった””ラグビー””というものが抜けてしまって、これからどうするか迷っているかもしれません。
なんとなく選手を引退したら学生スタッフに転向する、という風潮がありますが無理する必要はありません。チームを離れる選択肢ももちろんありますし、その選択をしても何ら問題ありません。
自分を置く環境を変えることは大変ですし、ましてやずっと雑用を続けることは気持ち的に楽ではないです。普通の学生生活でしか味わうことのできない、楽しい経験があなたを待っているかもしれません。
ですがそれでも学生スタッフに転向し、チームのためにいろんなものを犠牲にして選手みんなのサポートを最後までやり遂げた経験は、普通の学生生活では到底得ることのできないものであり、自分を大きく成長させてくれると思います。
焦る必要はありません。まずはしっかり休んでから、今後どうするかゆっくり決めていけばいいと思います。」

 

自分がトレーナーとして仕事をする中で、あの時周りにもっと感謝しながらプレーすればよかったと日々後悔しています。トレーナーに転向してから仕事の多さに驚き、選手の見えないところでずっと仕事をしてくれていたことに気づきました。
試合する対戦相手がいて、テーピングを巻いて試合前アップをし、水を飲んで用意されたGPSとジャージを着て、自分の出番があって、その試合動画をすぐ見れることは当たり前ではありません。このチームは多くの学生スタッフの仕事で支えられています。しかもスタッフのみんなは、給料がもらえるアルバイトでなくこのチームを選び、無給でずっと働いています。選手は普段の練習から、このチームでラグビーができることに感謝しながらプレーしてほしいです。

(4回生・金本亮斗、石岡泰一、芦塚悠大、大宮泰輝)

 

少し前にやなぎ(柳澤慶 4回生)とこう話しました。
「お前ら、試合で勝ってくれよ」
「無責任すぎるやろ!笑笑」

僕はもう試合に出れません。
どれだけラグビーをしたくてもできません。
僕がどれだけ冷たい水を用意して、丁寧なサポートをしても、最終的に勝つのはグラウンドに立つことが許された23人の選手です。
ジャージを着れなかったメンバー外の選手だけじゃなく、学生スタッフの想いも背負って、ジャージを貰った選手はプレーしてほしい。
そして必ず開幕の京産戦、秋シーズンで勝って選手権に行きましょう。それが学生スタッフ達にとって何よりの報酬なのですから。

父と母には感謝しかありません。父はラグビー経験者でありながら、私のプレーについてのことは今まで一切全く口出ししたことはありません。「俺FWだからBKのことはわかんねぇ笑」と言ってはいますが、それが父の優しさだったと思います。私が大学進学する時に母が「泰輝と悠希(弟)には借金してでもやりたいこと、やらせてあげようと生まれた時から決めてたの」と言ってくれた時は本当に嬉しかったのを覚えています。
今までたくさん応援に来てくれてありがとうございました。何度も脳震盪になって心配をかけました。
まだ全然親孝行ができていないので、これからしていきます。

 

同期のみんなへ
最後まで一緒にラグビーできなかったけど、約2年一緒にラグビーしてくれてありがとう。みんなと遊びに行ったり、飲みに行ったりするのは毎回とても楽しかったです。これからはまたたくさん遊びに誘ってください。僕はもうプレーはできないので、これからは同期が出ている試合をみんなと見に行ったり、仕事終わりに飲みに行ったりしたいなぁと思ってます。なので東京に転勤になった時は連絡ください。
東京勤務のみんなと一緒に待ってます。

(4回生・久保田慧、橋本凌、大宮泰輝、古賀琉資)

 

志半ばで終わってしまった私のラグビー人生ですが、16年前、まだ嫌々ながらも楕円球を持ち始めた大宮少年に今なら
「ラグビー楽しかったぞ!」って言ってあげれると思います。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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